真理は人を自由に〜カレーの悟り
“真理は人を自由にさせる。無知で解くから縛られる。”
先週の御言葉に出てきた一文で、思い出したこと———カレー、です。(笑)
私が修了してまだ数年、という頃。
聖書を読んでいて、この「真理は人を自由にする」という言葉がずっと理解できなくて。
何故なら、真理の御言葉を聞けば聞くほど、
あれをしてはいけない、こうしなければならない、と言われている気がして、
どんどん苦しくなっていったから。
しばらく、長らく、悩んでいて、でも自由にするっていうし…と悶々としていたのですが、
私のその疑問が解けたのが、カレーを作って、でした。
当時、よくみんなで一緒にご飯を作り、食べていたのですが、
その日はカレーを作ることに。
みんなで分担して、野菜を切って、いました。
そしてある人が、ニンジンを、薄めのいちょう切りにしているのを見て。
私はめちゃくちゃ、青天の霹靂!!!というくらい、かなりの衝撃を受けまして。
——何故なら、我が家のカレーは、乱切りだったから。(笑)
思い込み、固定観念ってほんっと怖いなと思うのですが、
ニンジンは乱切り、と思い込んで決めつけていた私には、ものすごくショックだったようで。
多分その場でも「なんでそんな切り方してるの!!」くらいなことを言っていたと思います。(笑)
で、後々そのことを考えていて。
自分でも不思議なくらい、何がそんなにショックだったのか、何でそんなに衝撃を受けたのか…
冷静に考えると、結果的には、あの場では少なくとも、いちょう切りの方が、よかった。
いちょう切りの方が早く火が通って早く出来上がるし、人数も多かったからみんなにいきわたるし。
でもそもそも、野菜の切り方って、誰が決めた?
料理のレシピって、決め事多いけど、何が何㏄とか細かいけど、
その通りに作っても美味しく思えないこともあるし、
母親のように目分量でがーっと作っても(笑)、むしろその方が美味しかったりもするし。
レシピ本だって、人によって言ってることが違ったりするし…。
結局。
料理って、美味しければ、美味しく作れれば、あとは何でもいいんじゃない?
———という結論に至りまして。
要は、料理は、美味しく作れれば、いい。
これが核心であり、料理における真理で。
そこに至るまでの方法はたくさんあって、人それぞれで、その時々で変わったりもして。
だから、美味しくなりさえすれば、切り方が違っても、
ちょっとくらい分量が、順番が違っても、きっとよくて。そこは自由で。
(まぁ、ケーキとか、繊細な料理とか、きっちりした方がよいものもあると思いますが)
でもその人にとっての一番のおすすめの方法が、そのレシピ、というわけで。
これと同じく。
その真理にたどり着くための一番の方法、場合によっては唯一の方法が、
御言葉の、ああしなさい、こうしてはならない、ということで——。
だから、真理が人を自由にする。真理に至れるならばその方法は(ある意味)自由。
真理を掴むならば、核心を掴むならば、あとは自由。真理を掴めたら、自由になれる。
真理、不変で普遍で不偏。それがわかったならどれだけ楽になるか、自由になるか…。
まずは真理をしっかりと掴んで、そこに至るための方法を、
教えてもらった通りにおこなっていく。大変でも、…けっこう大変だけど。(^^;
時に、自分なりに工夫しながら、調整しながら。
料理、正直苦手でした。そう、決まりごとが多いから。細かく量るのが面倒で。
でもこれに気付いて、悟ってからは、本当に楽になりました。
多少、適当だとしても(笑)美味しくなれば、美味しくできたら、よし、と。
そして、自分の思い込み、決めつけ、固定観念、~ねばならない的な考え、からも、自由になれました。
目の前の、~ねばならない、ばかりにとらわれて、振り回されて、
それこそ肝心な、核心を、真理を、見失っていたことにも、気付くことができました。
不思議なことに、その後、ニンジンの切り方一つに、何であんなにショックを受けたのか、
今考えても、自分でもまったく理解できないですし、本当に不思議です。笑
きっと神様か聖霊様が、私に悟らせるために、あえて大きな衝撃を与えたのかな、と、思います。
“真理は人を自由にさせる。無知で解くから縛られる。”
~ねばならないという固定観念、その無知で解くから縛られていたんですね。
きっと、他にも、無知で解いていることがたくさんあるんでしょうね。
もっと自由になれることが、まだまだ、たくさん、ありそうです。
苦しい、縛られている、と思ったときは、このことを思い出せたらと思います。